日本の「安心」はなぜ、消えたのか
日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
- 作者: 山岸俊男
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2008/02/26
- メディア: 単行本
- 購入: 16人 クリック: 253回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
[内容]
社会的問題の多発を人間の心に起因させるのでなく、社会学、仕組みという観点から解決策を探る。
[感想]
バリバリの文系の人が書いた本ということもあってか、やはりところどころ論理の展開に違和感を感じる部分はある。具体的に言うと、帰納法と演繹法が入り乱れていたりするところ。
問題を心に求めるなというけれど、やはり心に起因させたくなるのが人情というもの。帰属の基本的エラーとかすっごく面白いな。確かに俺も「自分だけは物を考えてる」と思っていた時期があったな笑。みんなそう思っていたとは赤面モノだ。
信頼者会では積極的に相手を信じるべしとは、アレに似てるな。昔進化生物学の授業で習った、生き残りゲームで必勝の性格=単純な奴、に似てるな。単純な奴=最初は信じるけど、やられたらすぐやり返す、それでも相手が謝ったらすぐに信じること。最初に信じることで、信頼検知能力が磨かれるというのは納得だ、重要だな。
臨海質量の話は、お話としては面白いけど、問題解決法には結び付けにくそう。
[概要]
現代の日本社会が直面している倫理の喪失とは実は、倫理の底にある「情けは人のためならず」のしくみの喪失。
いくら国民に徹底した倫理教育を施してもいい国など生まれない、と歴史が示している。
例:ソ連、中国
そもそもの間違いは、教育で人間の心はいくらでも変えられるという認識:タブラ・ラサ(白紙という意味)。
日本の学校のいじめ問題のカギは、「いじめをさせない」ではなく「いじめを許さない」環境作りにある。
日本独自の和の文化が日本人の愛社精神や滅私奉公を作り出したのではない。
反例:戦国時代の武士の自己顕示欲
実はそうした方がトクだから滅私しているに過ぎない(デフォルト戦略が滅私であるということ)。
日本の社会という「環境」が変わることで、生きるうえでの「戦略的行動」も変わり、その結果「日本人らしさ」のあり方も急速に変貌しつつある。
普通人の心にあるという自己高揚傾向が日本人にも実はある。
では、なぜ日本では多数派を選ぶことが無難なデフォルト戦略だと見なされるのか?
→1.帰属の基本的エラー(人の行動を見ると、その行動の背景に「人の心」を求めてしまうこと。実は本心からの行動でないかも知れないのに。)
例:自分は嫌々仕事しているのに、他人を見ると滅私奉公だと思い込んでしまう。
→2.予言の自己実現(思い込みが現実になる)
日本人は、日本人は集団主義的行動があるが自分だけは例外である、と考えている集団といえる。
アメリカ:信頼社会(見張りシステムがない為、信頼という基準が必要)
まず他人を信じることからスタートしなければならない。
不信をスタートにすると、不信の連鎖に陥る。
一般的信頼が高い高信頼者は、信頼性の観察眼を鍛えられる機会に恵まれ、失敗から学ぶことでさらに他人の行動を予測する能力が伸びるという、「正のスパイラル」になる。
高信頼者は決して楽観的でなく、信頼性をシビアに観察している。何かあれば冷静に対応する。
低信頼者は信頼性の観察眼を磨く機会がないため、負のスパイラルに陥る。
信頼者会では多少の失敗にめげず、積極的に信頼していくことが必要。
日本:安心社会(見張りシステムが安心を生み出す、信頼が必要ない、正直も必要ない)
他の人のわがままを許せば、自分が責められるかもしれないという危機感から見張る。
もともと日本人は他社一般に対する信頼は低い。
このシステムが戦後日本の高度成長を支えた。
様々な社会問題は、日本が安心社会から信頼社会へうまく移行できていない歪みではないか?
安心社会では関係性検知能力(集団に波風を起さないこと)が重要となる。
安心社会は騙されない保険料として「機会コスト」を払っている。
信頼性検知能力も関係性検知能力も数ある社会的知性の一つに過ぎない。
信頼者会への移行には、お説教は無意味。信頼できる環境作りが必要。
そのためには、教育もダメ(人によって違いが出る)、アメとムチもダメ(完璧に監視はできない)。
問題は、協力主義者と非協力主義者だけでなく、「日和見主義者」がいることを認識していないこと。
社会的ジレンマの多くは、どれだけの者が協力的・非協力的行動を選んだかによって、結果はガラリと変わる。
その潮目となる比率を「臨界質量」という。
・社会的ジレンマの解決には、最初から全員に働きかける必要はない。
世の中のほとんどは日和見主義者なので、臨界質量を超えれば、我も我もと問題は解決に向かう。
・臨界質量を得るのに「アメとムチ」を用いる。
全体を監視するのではない、効果的に「アメとムチ」を用いてコストを抑える。
熱血教師の指導で、臨界質量を下げることができる。
安心社会のマグレブ商人が信頼者会のジェノア商人に負けたのは、
・「機会コスト」のせい
・ジェノア商人が公正な法制度を作り、正直な人を守ったから。
中国には統治する法はあったが、ローマのような民法がなかった。
アメリカも最初は安心社会、社会規模が膨れる19世紀後半に公正な社会制度を作ったことが、後のアメリカの繁栄を作ったとも言われる(ザッカー)
「法」が社会に代わり「安心」を提供することで、人々は他人と一緒に仕事ができるようになった。
信頼社会の基準:法制度によるネガティブ評価+評判によるポジティブ評価(ブランド)
インターネットのような開放的世界では、ネガティブ評価はごまかせるが、ポジティブ評価はごまかせない。
よって、よりポジティブ評価が重視されるようになる。
ポジティブ評価が、情報の非対称性による市場のレモン化を防いでいると思われる。
これからの社会においても、評価情報を管理するサービスをいかに実現していくかがカギになるのでは?
何でもお上の監視・管理に頼るのは、信頼者会には不適合。
日本は信頼社会に移行するまで持ち堪えられないかもしれない!
安心社会の倫理と信頼者会の倫理はまったく違うもので、混ざり合うと救いがたい腐敗を生み出す。
例えば、武士道は正直よりも忠誠を重視する→市場倫理に反する。
そもそも利益を追求する商人は武士道(安心社会)からは否定される存在
→石田梅岩による「石田心学」という商人道(悪いのは利益の追求そのものでなく、相手に利益を与えない一方的な事故利益追求である)
今こそ商人道を!